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小此木啓吾先生 みゆきクリニック初代院長

略歴

小此木啓吾先生は、1930年、東京で医師の家庭に生まれ、慶應義塾大学医学部をご卒業後、精神科医となられました。その後、慶應義塾大学文学部、東京教育大学、立教大学大学院、上智大学大学院、東京大学大学院などで教鞭をとられ、慶應義塾大学環境情報学部教授、東京国際大学人間社会学部教授を歴任なさいました。

日本精神分析学会会長をはじめ、日本心身医学会評議員、日本家族療法・家族研究学会最高顧問、日本思春期青年期精神医学会副会長などを歴任され、国際学会においては国際精神分析学会日本支部書記長、世界乳幼児精神医学会副会長、国際思春期青年期精神医学会理事、世界保健機関(WHO)パーソナリテイ障害研究委員、ドイツ精神分析アカデミー機関編集委員、メニンガー精神医学校ワークショップ委員会委員などを歴任されました。
日本精神分析学会第一回学会賞である古澤賞、慶應義塾大学・福沢諭吉賞を受賞されました。

業績

若い頃に、フロイトの直接の弟子であった古澤平作先生のご指導を受けられ、24歳の頃に設立された日本精神分析学会においては、その設立から尽力されると共に、終生、精神分析学会の指導的立場にあられました。
35歳の時に、国際精神分析学会訓練分析医の資格をお取りになられ、世界中の優れた精神分析家との交流を深められながら、たえず海外の新しい理論を積極的に取り入れられ、日本に紹介なさいました。

また、日本人としての、ご自身の独創的な精神分析理論の展開も積極的になさいました。
「喪の仕事」を始めとして、小此木先生のフィルターを通した、独自の視点でとらえなおしたフロイト論を展開され、この解釈によって、どれ程多くの日本の精神分析を志す若者たちが、フロイトを身近に感じたか知れません。あたかもそこにフロイトがいて、講義をしてくれているかのような錯覚さえ覚えたものです。
「阿闍生(アジャセイ)コンプレックス論」に関する研究もライフワークのひとつでした。これは古澤平作先生の日本人の罪悪感に関する研究を、小此木先生が加筆修正し、発展させたものです。ウイーンにおける精神分析の草創期に、数名の日本人がウイーンに留学し、フロイトの直接の指導を受けていますが、その中の一人である古澤平作先生に、小此木先生は師事されました。阿闍生の物語は観無量寿経という仏教の経典を題材にしていますが、古澤・小此木版では、原典とはかなり違う修正がなされており、この加筆修正のプロセスには、小此木先生の臨床体験が背景におありだったのだろうと思われます。

先生の著作は膨大な数にのぼり、ご自身ですら何冊の本をお書きになったのか把握していらっしゃらなかったことと思いますが、その数は数百冊に及ぶものと思われます。
一般書として書かれた「エロス的人間論」「モラトリアム人間の時代」「自己愛人間」などで広く名前を知られるようになりましたが、1984年に出版された「精神分析の成立ちと発展」は、自我心理学派、クライン学派、対象関係論学派等の、現代の精神分析の多岐にわたる学派の理論を横断的に網羅する、世界でも類を見ない内容で、現在においても決して新しさを失わない名著です。
世界的に見ても、あらゆる精神分析理論に精通する精神分析家というのは、意外なことですが実はあまり見あたりません。一般的に海外の精神分析家は、自我心理学者は自我心理学だけを、クライン学派はクライン理論だけを探求する場合がほとんどなのです。
近年でこそ、学派の違いを越えて、超学際的な共同研究が国際的に進められていますが、小此木先生はそれを一人、1950年代から実践していらしたのです。

ご自身の思索を深め、独創的な理論展開をされながら、海外の新しい理論を積極的に日本に紹介し、さらにはその分野の第一級の精神分析家を次々と日本に招聘され、共同で講演を行い、啓蒙に努められました。
ラモン・ガンツァレイン、オットー・カーンバーグ、アニー・バーグマンをはじめ、世界の第一級の精神分析家たちが、小此木先生の招きに応じて、日本を訪れたのです。
小此木先生がお元気でいらした1980年代から1990年代にかけて、日本にいながらにして、数多くの世界の才能に直接触れられる機会を与えられたことは、本当に幸運でした。

また小此木先生は晩年、間主観性理論に親しんでおられましたが、それは長年小此木先生が実践していらした臨床にもっとも近い理論ということができ、世界がやっと小此木先生に追いついたかのようにさえ思えるものでした。

先生は、全国各地で講演をなさり、膨大な著作を残され、医師として患者さんたちの治療にあたられる一方で、医師や臨床心理士の教育にも大変熱心でいらっしゃいました。
生前、小此木先生ご自身が「自分の一番の業績は弟子をたくさん育てたことだ」とおっしゃっておられましたが、小此木先生の下には、日本全国から先生のご指導を仰ぐ精神科医や心療科医や臨床心理士たちが集まり、その薫陶を受けました。
現在、弟子たちの多くが、全国各地で、精神分析的な領域や心理臨床の分野で、指導的な立場にあります。

お人柄

天才にありがちな気難しさはなく、温かな笑顔の魅力的な、大変チャーミングな方でした。分からないことがあって先生に質問すると、「フフッ」と小さく笑われて、暫く間を置いた後、「それはね・・・」と語りはじめます。
あたかもずっと長いことそのことについて熟考し、推敲を重ねていたかのように、よどみなく、流れるように、語り続けてくださるのです。まるで手品を見るような思いで、次々と繰り出される話に、夢中になって聞き入ったものでした。先生一人に生徒一人、たった一人で伺うには、あまりにもったいないような特別講義でしたが、先生は惜しげもなく、ご自身の知識や経験を弟子たちに分け与え、いつもこちらが期待する以上のことを、教えてくださるのでした。
話しながら、先生は時々席を立って、部屋中を歩き回りながら、話し続けられたものです。そういう時は、決まって先生のご機嫌の良い時で、こちらの質問や反応を喜んでくださっている時だったように思います。
特筆すべきは、小此木先生からそのような特別な薫陶を受けた弟子たちの数は、決して少なくないということです。先生の身近に接した弟子たちの多くが、「自分だけの、特別な小此木啓吾先生体験」を持っていて、今もそれを心の支えにしています。

時々、先生の思いが弟子たちにうまく伝わらず、弟子たちの働きが充分でない時には、大層ご立腹され、厳しく叱責されたものでしたが、決して叱ったままにはなさらず、後から必ずフォローしてくださるのです。厳しいけれども、深い思いやりのある方でした。
また優れた理論家であると同時に、決して教条的に理論にかたよることのない、柔軟な思考をお持ちでした。あらゆることを多面的にとらえ、斬新な視点をもった語り口と、その柔軟性が、多くの人をひきつけたのでしょう。

晩年

小此木先生は、恩師の古澤平作先生を大変尊敬されており、古澤先生の「阿闍生コンプレックス − 二種の罪悪感」の研究発展をご自身のライフワークのひとつに位置づけられておいででした。
2001年7月、フランスのニースで開かれた国際精神分析学会で、「日本人の阿闍生コンプレックス論」に関するシンポジウムを開催され、大変な反響を呼び、日本への帰路パリに立ち寄られ、フランス国営テレビのインタビューを受けられましたが、それが先生が国際的な表舞台に立たれた最後となりました。
同年9月、下咽頭に腫瘍が見つかり、闘病生活がはじまりました。つらい闘病生活でしたが、一度も愚痴をこぼすことなく、毅然と病気に立ち向かっておいででした。
病床にあっても学問への情熱は衰えず、闘病中にも3冊のご著書を著され、精力的に弟子の指導を続けられました。病床に弟子たちを一人ひとりお呼びになられ、最後の力を振り絞るかのように、それぞれに、ご自身の臨床の知識を伝え続けておいででした。

晩年のフロイトは、喉頭癌の手術を十数回受けましたが、「朦朧とした頭で過ごすよりも、苦痛の中で思考するほうがましだ」といって少量のアスピリンしか痛み止めとして使わなかったという逸話が残っていますが、小此木先生もフロイトに習い、最後まで痛みの治療を望まれませんでした。どんな苦痛の中にあっても、愚痴ひとつこぼすことなく、ご自分に与えられた運命を、静かに受け入れておいででした。
そして、2003年9月21日未明、学問に捧げられた生涯を、終えられました。

超人的な業績を残された人生でしたが、病床にあっても、今後実現させたい多くのプランを語っておいででした。まだまだやりたいことは山積していて、志半ばの生涯だったことと思います。
小此木先生が残された学問的遺産は、学問、臨床、あらゆる方面にわたり膨大ですが、何よりも、「小此木啓吾」という、稀有な才能を身近に体験し続けたことが、もっとも貴重な経験だったのではないかと、先生がいなくなって初めて気づくようになりました。先生がお元気でいらした頃には、そこにいてくださることがあまりに当たり前すぎて、天才的なまれな才能に日々接しているという幸運を、つい見過ごしてしまうのでした。

ここに、晩年のフロイトが最後の1年を過ごしたロンドン郊外のハムステッドにある自宅を弟子たちが訪ね、バラの咲く庭で、老フロイトと弟子たちとでお茶を飲んでいる写真が残されています。小此木先生があと数年長く生きていてくださったら、そのような時間を先生と一緒に過ごすこともできたのではないかと、想像してみます。
それは決して叶うことはなくなってしまいましたが…。

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