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ウイーンの冬

[2015.12.01]

2000年の冬、年末年始の休暇を利用して、ウイーンを訪れた時のこと。
宿泊していたホテルの車を1日チャーターして、フロイトが住んだ家々を回ったことがあります。

1860年頃、フロイト3歳の時に一家はウイーンへ移り住みますが、フロイトが医師となり、開業医となってベルクガッセ通り19番地に自宅兼診療所を構えるまで、一家は何度も自宅を転々としています。
フロイト一家が住んだ家全てと、医師となって成功したフロイトが避暑の為に夏を過ごしたウイーン郊外の家などを訪れましたが、運転手には予め住所のリストを渡しておいたところ、最も効率よく回るルートを考えて来てくれて、一日でほぼ全部を回ることができました。

ジグムント3歳の時にフロイト一家が最初に移り住んだ家には、一番行ってみたかったのですが、運転手はなかなかそこへ行こうとしません。再三、行くように促すと、「ドクター、そこはあなた方が行くような所では有りません」 と表情を曇らせる・・・。

行ってみて分りました。
そこは音楽やハプスブルグ家の遺産に彩られた、華やかなウイーンの表の表情とは違い貧民街とまでは言わなくとも、町全体が沈んだような、暗い雰囲気の一帯でした。
運転手は、決して車から降りないように、何度も念をおしていました。
治安も良くないのでしょう。

オーストリアの誇り、精神分析の創始者 ジグムント・フロイトのウイーンでの生活は、1859年 フロイト3歳の時、ウイーンの裏側の、暗く貧しい地域から始まったのでした。

雪がちらつく底冷えのする冬の寒い一日、かつてフロイトの住んだ家々を車で廻り、その夜、ウイーン楽友会館で、アーノンクールの指揮するバロック的な解釈のウイーンフィルの演奏するヨハン・シュトラウスを聴きながら、ふとフロイトは楽友会館やオペラハウスへ足を運んだのだろうか、と考えてみました。
フロイトは音楽を好まなかった、と言われています。

ウイーンは音楽の都、街には音楽が溢れていると言っても過言ではない程で、おそらく、ウイーンの音楽嫌いと日本の音楽愛好家が同じ位のレベルではないかと思われるほどで、音楽の都ウイーンに住んで、音楽と無縁でいることなど、出来るのでしょうか・・・。

ウイーンでは、人々が気軽にモーツアルトを弾き、ヴェルデイを口ずさみ、泊まっているホテルのロビーでアグネス・バルツアが誰かと話をしていたかと思うと、レストランの隣のテーブルではプラシド・ドミンゴが食事をしている、といったことが、大げさではなく、ごく普通にあるのです。

音楽を好まなかったフロイトが唯一聴いたのはワーグナー、それもワルキューレだったと言われています。
しかしそれも、音楽が好きだったと言うより、物語の主題の方に興味があったようです。
フロイトがオペラハウスに足を運んだ、という記録は、私の知る限りどこにも見当たりません。

華やかな音楽や社交の世界に背を向け、暗い空の下、フロイトはひたすら思考し続けたのでしょうか。
ウイーンには、パリの華やかさや、ローマの明るさはなく、黙々とものを思考するのには、適しているのかも知れません。

暗い貧民街の様な街で始まったフロイトのウイーンでの生活は、精神分析の創始者となった後も、世紀末ウイーンにあった華やかさやお気楽さとは、無縁だったのかも知れません。

フロイトは、ウイーン市内を転々とした後、医師となってベルクガッセ通りに診療所を構えています。
ウイーン・ベルクガッセ19番地
世界中の精神分析家が、憧れをもって語る住所・・・

欧米の医師は言うまでもなく、地球の反対側に住む南米の精神分析医と話す時でも、挨拶代わりのように話題になります。
「ベルクガッセ シュトラーセ19番へ行ったことはある?」
「もちろん! 朝から夕方まで、一日中、そこで過ごしたよ」

フロイトが亡くなる1年前まで過ごした自宅兼診療所は、フロイトハウスとして今も当時のまま残されています。

1938年、ナチスドイツがウイーンに侵攻し、ユダヤ人の迫害が日に日に深刻になっていく中にあっても、フロイトはまさかナチスドイツがあれほどまでに非情なことをするとは予想しておらず、亡命には消極的で、最後までウイーンに留まることを望んでいました。

そのフロイトを半ば強引に亡命させたのが、フロイトの弟子の一人であり、ギリシャ王妃であり、ナポレオンの子孫にあたる、マリー・ボナパルトでした。

ゲシュタポは、フロイトを捕えようとフロイト宅を何度か訪れているのですが、マリー・ボナパルトは高貴な立場を最大限に利用し、文字通り身体を張ってフロイトを守り抜きます。
フロイトの自宅兼診療所は2階にあり、1階ホールからはゆるやかならせん階段を上って行くのですが、マリー・ボナパルトはその階段の途中にフロイトが連れ去られない様、終日座り続け、ゲシュタポを追い返した、と言われています。

底冷えのする寒いウイーンの冬、黒いブラックグラマのミンクのコートを羽織り、王妃自ららせん階段の床にじかに座り、誰であってもここを通さない、
という覚悟と気迫は、鬼気迫るものがあったのでしょう。
結局ゲシュタポはフロイトを捕えることを諦め、マリー・ボナパルトの説得に応じてフロイトは無事亡命し、フロイトに関する重要な資料は全てギリシャ王室の荷物として検閲を免れ、ロンドンへ送られました。
これは王妃と言えども、外交問題に発展しかねない、非常に危険な賭けでした。

フロイトは1938年、ウイーン駅からオリエント急行に乗り、マリー・ボナパルトに付き添われて、パリを経由して、ロンドンへ亡命しています。
この時、多くの市民が駅に詰めかけ、フロイトを見送ったと言われています。

余談ですが、この見送りの群衆の中に、後に自己心理学の創始者となるコフートがいたそうです。
フロイトはオリエント急行の窓から見送りの群衆に手を振り、この時一瞬だけフロイトがコフートの方を向いた、その体験をコフートは終生大切にしていて、後に精神分析家となり、ポストモダン的発想とも言える自己心理学を確立したのでした。
一瞬の出会いが人生を決定づける、コフートにとってのフロイト体験は、そのようなものだったのでしょう。

こうしてマリー・ボナパルトの強引なまでの力強い援助のお陰で、フロイトの手書きのカルテや原稿は散逸することなく、残されています。
第二次世界大戦下のウイーンにあって、ユダヤ人フロイトの資料がそのように守り抜かれたことは驚異的なことと言えるでしょう。
マリー・ボナパルトがいなかったら、フロイト研究は全く違ったものになっていたでしょうから・・・。

フロイトが最後の1年を過ごしたロンドン郊外のハムステッドにある終の棲家は今も当時そのままの可愛らしい雰囲気を持ったまま、フロイトミュージアムとして残されています。
ウイーンにあったフロイト愛用の机やカウチは、すべてこのロンドンに移されていて、小さいけれども手入れの行き届いた庭には、フロイトも愛でたと思われる美しい薔薇が咲いています。

ロンドンへ行かれる機会がありましたら、是非ハムステッドまで足をのばして、フロイトミュージアムを訪ねてみて下さい。

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