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巨人たちの軌跡

[2015.11.30]

マリー・ボナパルトの助力のお陰で、フロイトの手書きのカルテが残されることとなり、勿論コピーですが、今でも私たちはそれを見ることが出来ます。

フロイトの手書きのカルテを見ると、余りの美しさに感嘆させられます。
まるで書き損じのない、推敲を重ねた最終稿の様に、美しく完成されているのです。
通常カルテは他人に見せることを想定していませんので、自分だけ読めれば良いというものですので、文字は書きなぐり、書き損じがあったり、話がアチコチとんだりして、まとまった文章の体をなさないのが普通です。

フロイトのカルテには、書き損じが殆どありません。
文脈も筋が通っていて、話があちこち飛んだりしておらず、そのまま論文として通用すると言っても過言ではない程です。
フロイトは、紙に書き出すと同時に、瞬時に書くべきことが頭の中で完成されていたのでしょう。

モーツアルトの楽譜にも、書き損じが無く、見事なまでに美しく完成されていたと聞いたことがあります。
天才的な人は、自分が何をなすべきか、考える前に知っているかの様です。

フロイトの天才を物語るエピソードとして、アメリカのクラーク大学へ講演旅行に訪れた時の逸話が残っています。
アメリカには弟子のユングとフェレンツイが同行し、講演は5日間にわたり、ドイツ語で行われましたが、講演の初日の朝、散歩をしながら、フェレンツイが、「今日の講演では何をお話になるのですか」 と聞いたところ「それが私に分かればなあ。私はいつも無意識に仕事を任せてるので、直前まで自分が何を話すのか分からないんだ」 と語ったと言います。
そして二人は散歩をしながら、新しい着想について30分ほど話し合ったのでした。

さて、講演会が始まり・・・
先ほど散歩の途中で話し合った事柄が、あたかも何年もの間熟考され、考えぬかれたかのように、見事に推敲され、理路整然と紡ぎだされた・・・、と後にフェレンツイは語っています。
もちろん、フロイトは一切のメモも見ずに、6時間にわたって講演をしたのでした。

この時、アメリカを訪れたフロイトを案内したのがブリルでした。
フロイトの弟子と言えば、事実上の後継者である娘のアンナ・フロイト、フロイト著作集をドイツ語から英語に翻訳したアーネスト・ジョーンズ、ユング学派を創設したユング、「恐るべき子供たち」と言われた3人の高弟フェレンツイ、ランク、ライヒ 等が有名ですが、彼等ほど有名ではないけれども、ブリルもまた、克己心の人です。

ブリルは10代の頃、無教養で横暴な両親を捨て、祖国オーストリア・ハンガリーを出て単身アメリカへ渡り、苦学して医師となっています。
家を出た時の所持金はたった3ドルだったと言われていますが、言葉も不自由な異国アメリカで、何の後ろ盾もなくお金もない異国の若者は、苦役して働きながら極端に切り詰めた生活を送りつつ、奨学金を受けながら自力で大学を出て、医学部にまで進み、医師となっています。

単身アメリカへ渡り、苦学して精神分析家となった人に、アニー・バーグマンと言う人もいます。
彼女はフロイトの直接の弟子ではありませんが、1920年ウイーン生まれのユダヤ人で、90歳になる今も、ニューヨークでご健在です。

彼女は幼くして両親を亡くし、大学に進むお金を出してくれる人がいなかったので、当時外国人でも授業料が免除された唯一の国アメリカに、10代の頃単身渡ったそうです。
しかしそのことで結果的に、ナチスドイツがウイーンに侵攻する前にアメリカへ渡ったことになり、ユダヤ人である彼女は、悲惨な戦争の影響から免れることが出来たのでした。

最初は室内楽を専攻したそうですが、37歳の時にマーガレット・マーラーという精神分析家と出会い、共同研究者となり、世界で初めて乳幼児の心理的発達を実証的に研究し、その業績は、乳幼児の心理的発達研究の金字塔として、歴史に残るものとなっています。

この知の巨人とも言える女性は、私の恩師の小此木啓吾先生と親交がありましたので、私も国際会議の席で何度かお会いし、日本に来日した時には、私が主催していた勉強会にも快く講義に来て下さいました。
これは例えて言うなら、小さなライブハウスにマドンナが来て公演をするようなものですね。

彼女には二人の息子さんがいますが、お孫さんもまた男の子ばかりだそうで、私に「あなたの様な娘がいたら良かったわ」と言って下さって、気軽に接して下さいます。
彼女の来日中、日本の下町を案内したり、丁度春でしたので一緒に満開の桜を見に行ったりして、数日を一緒に過ごしました。街を歩きながら、途中子どもを見かけると、彼女は足を止め、じっとその子どもの行動を見詰め続けます。
そのまなざしは、研究者としての冷静なものと、心から子どもたちを愛している愛情の混じり合った神聖なものでした。
その美しい表情に見とれながら、見つめられている子どもたちは、今その子を見つめている老女が、世界的・歴史的な子どもの心の研究者だなんて、想像もしないだろうな・・・と思いながら私は子どもを見つめているアニー・バーグマンを見つめていました。

国際会議でも、会議場に彼女が現れた瞬間、周囲がどよめいて、皆が賞賛の眼差しで敬意を現す様子が見て取れます。
ある時、ヨーロッパで開かれた国際会議のパーテイで、私が高齢の彼女に料理や飲み物を持って行ったりして、親しげに接している様子を見ていたある男性が近づいて来て、私に話しかけてきました。
「どうしてあなたは、アニー・バーグマンとそんなに親しいのか」
「・・・はあ・・・」 (だって、ご高齢なんですもの、これ位のことをするのは当然じゃない・・・?)
「私はA国の精神分析学会の会長をしているBと言う者だが、是非アニー・バーグマンと直接話をしてみたいので、紹介してくれないか」B氏とは初対面でしたので、初対面の人を紹介するのも変だなあと思いつつも、言われた通りに紹介してあげたのです。と言っても、「こちらA国の学会会長のドクターBです」と言っただけですが・・・。
後から、「あなたのお陰で偉大な分析家と話をすることが出来た」と大変感謝されました。

両親を若くして亡くし、何のツテもなく単身アメリカに渡った異国の女の子は、後に歴史的な業績を残し、各国の学会会長ですら敬意と憧れを持って仰ぎ見る存在にまでなったのでした。

ブリルやアニー・バーグマンが苦学して大学を出た時代は、世界的に深刻な不況下にあり、すさまじい失業率とインフレで、若者の多くが未来に希望を持てないと感じていた時代背景にあって、今の社会情勢と共通するものがたくさんありますね。
当時の世界不況は、ナチスドイツの台頭を許し、欧米列強が植民地支配や戦争という禁じ手につき進んでいったほど深刻なもので、今の社会状況よりもさらに暗く希望のないものだったのかも知れません。

世界的な不況下にある社会は、学歴や後ろ盾の無い若者に冷たいのはその当時も今も同じ・・・。
大学を出ても就職先が無い、親の失業の為に高校や大学を中退せざるを得ない学生が増えていると聞きます。
社会や、自分の置かれた立場を嘆くだけではなく、自暴自棄にならずに、信念を持って努力すれば道は開けると、彼らの様な存在は教えてくれるように思うのですが・・・。

カナダのパトリック・マホーニー氏は、現代フロイト研究の第一人者、精神分析家であり、著明なシェークスピア研究者でもあります。
その著作は、古典的な香りのする非常に格調高い文章で、多数の言語に翻訳され、世界各国で出版され、世界中の数多くの文学賞を受賞している第一級の文学者です。

彼は貧しいアイルランド移民の息子で、ニューヨーク・ブロンクスの生まれ、ご両親は4年間の小学校教育しか受けていなかったそうです。
彼が生まれ育った当時のニューヨーク・ブロンクスは、最も治安の悪い犯罪の多発地帯で、そこで生まれ育った子どもは殆どがギャングになるとまで言われていた、まともな人は決して近づかない一帯でした。
その銃声が聞こえることの珍しくない危険地帯で、彼はひたすら勉強し続けたそうです。

その世界的文学者であり、精神分析家であるマホーニー氏もまた、一歩間違えればギャングになっていたかも知れない環境にあって、強い克己心でもってご自分の道を切り開かれた方と言えるでしょう。

今もモントリオールでご健在ですが、国際会議等でお会いする度に「一体いつモントリオールへ来るんだ?君が来たら、街中を案内するよ」と何度も言って下さっていたのに、未だに実現していないことが心残りです。

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