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無冠の賢者 A氏

[2015.08.09]

まだ研修医の頃、大学から派遣されて、ある地方都市郊外の海辺の精神病院に週2日、パート勤務で出向していたことがあります。
磯の香りのする、温暖な気候のその地域への出張は、ちょっとした息抜きでもあり、患者さんたちも穏やかな方が多く、楽しみに通っていました。

そこへ赴任して間もないころ、当時70歳を少し過ぎた年齢のA氏が入院して来ました。
A氏はある日突然、幻覚妄想状態となって警察に保護され、田舎の精神病院に収容されたのです。

A氏には戸籍がありませんでした。B国からの密入国者だったのです。
若い頃のA氏は、事情があってB国を出なければならなくなり、日本海を泳いで渡り日本に密入国したのでした。信じられないことですが、余程、屈強な身体をしていたのでしょう。
海図を見てどこに島や岩があるかを頭に入れ、天体の動きで方向を確認しながら、時々岩陰で休みながら、泳いで渡って来たというのです。

密入国者にまともな仕事があるはずもなく、A氏は詳しくは話しませんでしたが、仕事を選ばず、ありとあらゆる苦役に従事したのでした。
A氏は文字も読めませんでしたので、日本語を形で記憶し、相手の言うことはすべてそのまま記憶し最低限の仕事や生活を手に入れるために、最大限の努力をしたのでした。

ある日A氏は労働災害にあい、両足の膝から上を切断すると言う悲劇に見舞われます。
事故などで足を失った場合に、膝関節があるかないかは非常に重要で、膝関節が無い場合、リハビリは困難を極めます。
しかしA氏にはリハビリを受ける経済的・時間的余裕はなく、また密入国者でしたので、労働災害に伴う保証も何もなく、一人黙々と、自己流のリハビリに励んだのだそうです。
両足が無いことが分かると雇ってもらえませんので、彼は義足であることを隠し続けました。

A氏はその後、日本に住む同じB国出身の女性と結婚しますが、信じられないことですが、A氏の妻は、夫が義足であることに、結婚して半年間、気付かなかったそうです。
妻にも話を聞きましたが、本当に分からなかった、と言っていました。

そのくらい、A氏の歩行は義足であることをまったく感じさせない、自然なものでした。
私もまた、A氏が義足であることを信じられない、という顔をしていたのでしょう。
ある日診察室で、A氏はズボンの裾を上げ、義足を見せてくれたのですが、確かに、本当に、両足とも、膝関節の上から義足でした。

義足であることを隠し、A氏は働き続けました。
義足であることも、文字の読めないことも、まったく人に悟られることなく、A氏は独力で日本での生活を築き、結婚し、家族を養い、戸籍のないまま日本に定住したのでした。

しかし、数十年にわたる想像を絶する苦労は、彼の精神を蝕み、ついには幻覚妄想状態となって、精神病院に収容され、そこで私が担当医となったのでした。
入院して、A氏の幻覚妄想は急速に改善し、程なく、全く問題のない平常状態に戻りました。

A氏は、決して快適とは言えない精神病院での生活を、心から堪能しているようでした。
暖かい部屋を提供され、食事の心配もいらない、明日のことを心配せずにいられる、日本に密入国して以来、こんなに手厚い保護を受けたのは初めてだと言って、心から感謝していました。
そういうことからも、A氏の人生がいかに過酷なものだったか、想像できるでしょう。

A氏は、診察室に入るなり、いつも私を拝み「先生は本当にすごい人だ。先生ほど素晴らしい医師には、会ったことが無い」 と言います。
当時の私は大学を出たばかりの新米でしたし、余りに毎回毎回、何度もそう言われるので、不思議に思い、ある日、聞いてみました。
「あなたはいつもそう仰るけど、何故そう思うのですか。
私はあなたの為に特別なことは何もしていません。他の患者さんと同じにしているだけですよ。」
そう言うと、A氏は 「だから、そこが凄いんですよ」 と・・・。

「先生は、本当に私を、他の患者と全く同じに扱っている、それがよく分かる。
私らみたいな人間を、まともに見てくれる医者なんて、これまで一人もいなかったですよ。
いくらか親切にしてくれる人もいたけど、そんなもん、エセヒューマニストです。
ずっと差別を受けてきた自分らには、それがよくわかるんです。
でも、先生には、そういうものが微塵も感じられない。
ただ一患者として、他の日本人の患者と同じに扱ってくれる。
そこが凄いんです。そういう人に、私は始めて会ったんです。」

A氏の人生の過酷さは、おそらく、私の想像をはるかに超えるものだったのでしょう。

自分が担当することになった患者さんは、職業、階級、貧富の差、等々に関わらず、対等に接するべきであると言う医師としての姿勢を、私は父から学んだ気がします。

子供の頃、往診に出かける父に付いていくことが大好きでしたが、医学部に入り、医師となって、改めて、幼稚園の頃、父の後をついて往診に行ったことから無言のうちに学んだことの方が、医学部で6年間学んだことより、はるかに大きかったことに気が付きました。

そのことを、A氏は思い出させてくれました。

医師一族の子弟はまた医師になることに、何かと批判されることも多い様ですが、親族から無言のうちに医師としての姿勢を示されることの意義は、推し量ることの出来ない価値があるのではないでしょうか。

A氏が何故祖国を捨て、日本に密入国することになったのか、その理由は分かりません。
「それだけは、いくら先生でも言えない」 と言って、決して話そうとはしませんでした。
妻も子供たちですら、聞かされていなかったそうです。
そのことだけは何があっても話そうとしない、と言っていました。
何か重大な事件に関わっていたのかも知れません。
B国を捨てる決意をした時に、墓場まで持って行く覚悟をしたのでしょう。

それにしても、膝関節上からの両足義足を、妻にも分からないほど自然に振る舞うことが、果たして可能なのでしょうか・・・。
にわかには信じられないことですが、A氏は、日本海を泳いで渡って来たほど屈強な身体の持ち主でした。運動能力も相当高かったのでしょう。
もし運動選手になっていたなら、オリンピックで世界記録を出すことも夢ではなかったかも知れないほど、高い運動能力だったろうと思われます。
そういうA氏だからこそ可能だったこととは思いますが、両足の膝から上の義足であっても、自然な歩行が可能である、という殆ど不可能と思われることを、A氏は自力で成し遂げ、身を持って示してくれたのでした。

一人黙々とリハビリを続け、自然な歩行を身に付け、文字も読めないまま、言われたことをそのまま記憶し・・・
もしA氏がきちんとした教育を受け、後ろ盾もあったなら、ひとかどの人物になっていたことでしょう。
忘れられない患者さんの一人です。

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