フロイトとマーラー
映画 「マーラー・君に捧げるアダージョ」 を観てきました。
天才作曲家グスタフ・マーラーのセルフィッシュな素顔と、妻の不貞に苦悩する姿、美貌と才能に恵まれたマーラーの若き妻アルマの、不倫と天才に仕える者の苦悩、そしてマーラーが救いを求めて精神分析医フロイトの元を訪れ治療を受ける3つの主題を軸に、マーラーの亡くなる前年の、晩年が描かれています。
ドイツ語の原題は「カウチの上のマーラー」カウチとは、精神分析で使用する寝椅子のことです。
マーラーがフロイトの治療を受けたのは1910年ですが、映画では前額法が用いられていましたが、この時期のフロイトは前額法をやめ、自由連想法に切り替えていたはずですので、映画の資料に問題があったのかどうか分かりませんが、それ以外のところは大体史実に忠実に描かれていた様に思います。
フロイトはマーラーと、診察室ではなく、ホテルで会います。
フロイトはシチリア旅行を切り上げて、忙しいマーラーの公演スケジュールに合わせて、マーラーの滞在先を訪れ、時間を作りますが、マーラーは2度もフロイトとの約束を直前でキャンセルしたばかりか、3度目も逃げ出そうとし、フロイトが追いかけ、強引に治療に引きずり込みます。
フロイトは葉巻をひっきりなしに吸い続けながら、マーラーに心の深淵をのぞく様、乱暴に、執拗にたたみかけます。
耐えきれずにマーラーは部屋を飛び出しますが、深夜戻って来て治療を再開します。
切羽詰まっていたとは言え、短時間で立て直して治療に戻ってくるあたりは、天才の持つ、常人を越えた自我の強さを示していると言えるのでしょう。
映画の中のフロイトは、現代の精神分析のある種体系化された治療技法から見ると、とても稚拙で、お話にならない位、技術的には未熟です。
精神分析医は、1日に同じ患者と何時間も会ったり、一緒に食事をしたり、同じ列車のコンパートメントに乗ったり、自分の家族のことや個人的なことを話したりはしません。映画を見た人に、これが精神分析だと思われたら困るな、と思う様な態度ややりとりばかりです。
もし現代において、同じようなことを若い精神分析を志す医師が行ったとしたら、彼は先輩の上級医師から集中砲火を浴びて、立ち直れない位批判されたでしょう。
精神分析はフロイトが創始したものですが、理論や技法が体系化されたのはむしろフロイト以後ですので、フロイト自身が、精神分析の初心者だったのです。
しかし・・・、患者さんに対しては絶対に行ってはならないことの連続ですが、専門領域は違うけれども、同時代を生きた二人の天才の出会いとして見ると、この映画はまた違った趣を持って胸に迫ってきます。
野戦病院で、消毒も麻酔も十分ではない状況で無理やり行った手術の様な、非常に乱暴な治療ではありましたが、結果的にマーラーは救われます。
どう、救われたのでしょう・・・?
妻・アルマの気持ちが既に離れていることに変わりはなく、マーラーの辛い苦しい状況は、何ら変わっていないのに・・・?
マーラーの「心のあり様」が変わったのです。
妻の心は既に自分から離れている、しかし不貞があったとしても、許せるかどうかなどということではなく、何があったとしても自分の人生からアルマを失うことは出来ない・・・もし起こりうる最大の悲劇があるとしたら、妻を失うことにある・・・そのことにマーラーが気付き、二人の関係性を見つめ直した、苦しい状況に変わりは無くても、その気付きが、マーラーを救ったのでしょう。
フロイトとマーラーの言語的なやり取りは、強引で乱暴なものに終始していたにも関わらず、何故マーラーは短期間の治療で、その様な「心のあり様」が数段高い所へ登ることができたのでしょう・・・?
そこに、言葉の上では表現されてはいないけれども、二人の天才の無意識的コミュニケーションというべき、魂の語らい、の様なものを想像してみます。
私は「魂」とか「スピリチュアル」という言葉が嫌いで、魂とかスピリチュアルと言っただけで、何か崇高なものであるかの様に錯覚している人たちの考え方にはどうしても馴染めず、これらはギリギリまで使いたくない言葉の一つですが、しかし、それでも、他に表現の仕様がない、これ以外に適当な言葉が見つからない…そういう場合があります。
フロイトとマーラーの関係が、恐らく、そうなのでしょう・・・。
乱暴な治療にも関わらず、マーラーが不幸の中にも心の安定を見出すことが出来たのは、言語や時空を越えた何かが作用していたはずです。
フロイトは、言葉ではなく、魂の交流で、マーラーを変えたのでしょう。
そして恐らくフロイトは、終生、魂の治療を続けたのでしょう。
フロイトと出会った人は、どんな出会い方をしたにせよ、好むと好まざるとに関わらず、大きな影響を受けずにはいられなかった、と言われています。
人によっては心の色彩が変わる程の、体験だったのでしょう。
フロイトとマーラーの間に、どのような無意識的コミュニケーションがあったのか、それは誰にも分かりません。
フロイトとマーラー自身、それをどれほど自覚していたのかすら、分かりません。
稀有な天賦の才能が出会い、短時間で人生を変える程の魂の交流があった・・・結果として言えるのは、それだけです。
フロイトは、魂とかミステイックなものを遠ざけ、その様な世界に向かおうとするユングを厳しく戒め、とうとう破門してしまいました。
その為にユングは、精神病状態にまで陥っています。
「天空に飛翔するのはたやすい、しかし勇気を持って地上にとどまれ」とはフロイトの有名な言葉ですが、フロイトは言語表現にこだわり、安易に「魂」などと言う定義不能なものを学問に取り入れることを、嫌いました。
しかし、誰よりもフロイトは、魂の仕事を、していたのでしょう。
誰よりもその能力が優れていたからこそ、その力を恐れたのでしょう。
芸術家は天賦の才能に恵まれているとはいえ、神の啓示に形を与え、それを表現する、いわば自らの才能の従僕です。
マーラーは音楽と言う表現で、フロイトは言葉と言う表現で、自らの才能に仕えたのでしょう。
私の恩師の小此木啓吾先生は古澤平作先生に師事し、古澤平作先生はフロイトに師事しました。
だから私はフロイトの曾孫弟子にあたる・・・ということが、私の密かな誇りです。